
Works
2017
2018
2019
2020
2021
2022
みみなり 共作
based on our obsessed ears
2023
2025
訥 for 4 voice performers
鈴木南音・熊谷ひろたかとの共作作品 ※矢野かおる名義の作曲作品
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共創ユニット「矢野かおる」による第一作目の作品。社会学者の鈴木南音と演出家の熊谷ひろたかに小栗が「一緒に声作品の作曲をしませんか」と声掛けをしたことから制作が始まりました。「矢野かおる」は以降、実験探究的な性質を強め、音楽ジャンルに囚われない様々な実験や作品制作、フィールドワークを重ねています。
この作品は『ロゼッタ 変異するノーテーション』での作品公募に応募し、ゲスト審査員である塩見允枝子、寺内大輔と、アンサンブル・ロゼッタにより選出され、アンサンブル・ロゼッタと野営地によって京都市立芸術大学にて初演されています。
“《訥》(2023)は、楽器および声楽によって説得力のある音を舞台上で響かせるであろう4人の奏者が、下を向いてぐるぐると歩きながら、観客に届けるわけでもなくただただフィラーを発話していく。舞台上で奏者は(政治哲学者ジャック・ランシエールのいうところの)「声」以前の「音」を発することになる。” 『ロゼッタ 変異するノーテーション』2024/05/12 初演時プログラムノートより
“◆けっして「声」になりえなかった「音」のために
この作品は、「声」以前の「音」を扱った、音楽作品である。
政治哲学者ジャック・ランシエールによれば、現代社会において、マイノリティと位置付けられている人々の「声」は、もはや「声」として聞こえることなく、単なる「音」として、あたかも動物の鳴き声のように理解されてしまう。たとえば、声を振り絞った社会的弱者の人々の叫びは、「うるさい人たちの喧騒」と一蹴されてしまう。もはや、かれらの「声」は「声」として聴き取られることすらない。そうだとしたら、いま、「声」を用いて作品を作るとき、すでに舞台上で発話することが許された洗練された「声」だけではなく、むしろ、けっして「声」になり得なかった「音」を、作品として舞台に乗せる必要がある。
◆表現される「声」から、やむを得ず生じてしまう「音」へ
そこで、本作品では、こうした表現される「声」ではなく、「声」以前に、やむを得ず生じてしまう「音」を、作品の構成単位としたい。
そのために、本作品では、フィラーを用いた音楽作品を作る(※)。フィラー(filler)とは、「なんか」や「ええと」などの、意味を持った言葉に先んじて、気づかずに生じてしまう「音」のことである。たとえば、「なんか」という言葉は、私たちはそれを意志によって(つまり、「声」として)、能動的に発するのではなく、むしろ、気がつけば受動的に発話されてしまっている。そして、フィラーは、これから表現されるべき何かをあらかじめ仄めかす一方で、とりわけ注意が払われなければ、私たちの会話から、つぎつぎと忘却されていく存在である。あたかも、人々の声が、音として忘却されていくように。
◆身体から発されてしまう「音」
気がつけば発話されてしまうフィラーの受動性を扱うために、本作品では、パフォーマーの身体的な移動の仕方を、つぶさに指定する。そのことで、能動的な強き意図ではなく、受動的な弱き身体から、気がつけば発されてしまう「音」を舞台上に体現したい。演奏中、パフォーマーたちは、舞台上の円環を俯き加減で歩み続ける。この円環には始まりと終わりがなく、「音」は「声」にならずに、堂々巡りし続ける。けっして「声」になることのなかったフィラーを発し続けるパフォーマーたちの、その歩みと共に生じてしまう、訥々とした「音」の発生こそが、この音楽作品である。
※湯浅譲二のテープ作品《Voices Coming》(1969)第二曲に代表されるように、フィラーにはそれ単体で繋留音のような解決を期待させる音楽的機能がある。” 譜面冒頭より



