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Works

生前のバイオリン、こないだの人 -for a violinist and Maika OGURI-
The Late Violin, and Someone

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“昔々、身体の一部だったバイオリンはもうここにない。

いつもの部屋の木の柱。最近、木目に目がひきよせられる。弾いたことのないウクレレの丸み、なぜだか左の鎖骨を寄せたくなった。

 

失ったものの痕跡はどうしてこんなに強く残るのだろう。

部屋にはいないはずの人がいる。いないはずのバイオリンがある。

わたしは二つの不在と共に生きる、一人のバイオリニストだ。”  初演時プログラムノートより

 

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補足解説

― 本作の創作に影響を与えた4つの背景 ―

 

本作は、即興演奏と現代音楽の分野で活躍するバイオリニスト加藤綾子氏の委嘱を受けて、「ヴァイオリニストのためのフィクション」という演奏会のために作曲されました。彼女から聞く問題意識や演奏会のテーマ、あるいはプライベートな話に触発され、この作品が生まれています。また、彼女とは作曲前に何度か、楽器や小道具を使った実験作業を共にしました。

以下に具体的な創作の背景を4つ記述します。

 

① 加藤綾子氏との対話から生まれた「西洋音楽へのオルタナティブ」

制作当時、加藤氏は、東洋人女性でありながら(白人男性中心の価値観と批判されがちな)西洋音楽の文化や価値観を当たり前に受け継いできたことを最近自覚し、それでもバイオリニストというアイデンティティを持つ自分は、今後どのようにこの文化と向き合っていけばいいのかわからなくなっていると話しました。

 

若尾裕氏の著書をはじめとして、「女性の音楽」や、西洋音楽に「感染」していない音楽など、先行する概念は示されているものの、その具体的な内容や「現役の音楽家は未来のためにどうあるべきか」という問いには答えが示されていません。

 

私は、西洋音楽に対するカウンターではなくオルタナティブを提示したいと考えます。人間の持つ「想像力」はそのための希望であると信じています。

この作品では、継承者がいなくなり消えてしまった楽器や言語と同様に、バイオリンが失われた後の世界を想像します。そこでバイオリニストはいかにバイオリニストたるか、ということをテーマにしました。

 

② 加藤綾子氏との対話から生まれた 演奏家の「不在性」への応答

演奏家が、作曲家による音の実現のためにその身体性や思想を舞台上で見えにくくされてしまう現象—加藤氏の言う「身体が透明になってしまった感覚」になる状況は、演奏現場における現実的な問題として確かに存在します。

 

本作では、「小栗舞花」という実名を編成に組み込むことで、その不在性を作曲家自身も引き受けることを試みます。演奏者の「不在化」という構造への批判を、単に逆転・修正するのではなく、「不在」を演奏者・作曲者の双方が引き受け、互いを素材として活用し合える関係性として再設計するということです。

わたし(小栗舞花)は、個人名であるがゆえに、この作品の中でときに「女性作曲家」として、「アジア人」として、あるいは他にもわたし自身の生き様によってさまざまな属性を持つ存在として現れるでしょう。従来の一方向的な指示関係とは異なり、奏者もまた作曲者(小栗舞花)を解釈し変容させる力を持っています。

 

この双方向的な関係は信頼に基づくものであり、今一度「作曲すること」と「演奏すること」を親密な関係に引き戻し、互いの「不在」さえも讃えることができるようにしたいのです。

 

③ 加藤綾子氏の演奏スタイルへの応答

加藤氏の演奏スタイルは果敢で、戦士のような強さを感じさせるものです。繊細さを大々的に打ち出さない彼女ですが、だからこそ、本作では彼女に「戦士の休息」のような瞬間を与えたいと考えました。

 

④ 弾けない身体・壊れた楽器への眼差し

かつて友人から、「自分はイップスのような症状で弾けなくなってしまった楽器がある。いつか個人的に演奏できる作品を作曲してもらいたい」と言われたことが強く印象に残っています。これは、わたしの作風が、楽器を普通の奏法で弾かないことから、弾けない楽器を「演奏する」ことが叶うという期待があるのではないかと思います。

 

それ以来、楽器を深く愛しながらも、身体の不調によって思うように演奏できなかったり、楽器自体の故障・劣化などによって演奏ができなくなってしまった状況—いわば能力と愛着の乖離がある状況に対して、わたしの音楽作品はなんらかのかたちで応えることができるのではないかと考えるようになりました。

 

この作品は、加藤綾子氏のために制作された舞台用の作品ですが、わたしの頭の片隅にはいつもこのエピソードがありました。そのためこの作品は、コンサートホールでの演奏が可能であると同時に、プライベートな環境(たとえば自分の家の部屋の中)でごく個人的な儀式のように遂行されるイメージも兼ね備えています。

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